昭和四十七年三月十七日 朝の御理解


御神訓 「一、生きても死にても天と地とはわが住みかと思えよ」

 人間の命程尊いものはないと人間は思います。そのために一人の命が助かることのためには、どんな沢山な、大変な犠牲を払うてでも命を尊びます。この頃からなんか新聞紙上賑わしておりました、赤軍のあの人達の行動というものは、本当に人間の風上にもおけない、そんな感じが致します。そういう例えば死刑にでも価するような罪を犯しておりましても、その子供には罪はない、そして何と言うかねライラちゃんというか、毎日のっておりました。ライラちゃんを救出する、そしてそれを大事にして、お医者さんに渡している写真が出ておりました。小さい命ですけれども、もう親がそんな悪いことするなら、子供は構わんと。子供はもう、放っからけいとけといったようなものではなくて、やはり、その命を尊ぶ、あの軽井沢事件の泰子さんの場合でもそうです。一人の命を救うためには沢山の犠牲を払ってでも、そういう働きを致します。ですから生きておることが如何に尊い尊いかと、そんなわけですね。
 信心というのは、私はそのように、例えば、人間の生命を尊ぶとか大切にするというように、信心とは、魂をそのように尊び、そのように大切にすることだと思うですね。それは天と地がわが住家であることが、おぼろげながら感じられて来れば感じられて来る程、これを大事にしなければならないことがわかって来る。現在利益とこの世で御利益を受けるということを、だけの宗教、この世では仕方がないとしても、あの世で助からねばならんということと、いろいろあります。お道の信心、教祖金光大神は、そこの両方とも大事にされた方、教祖金光大神の生きられ方を見ると、本当に日々の生業(なりわはい)の中から、御自身を愛しんでおられるというような感じ、共に魂を大事にされたということである。
 私どももあの世と言うたところで、行って来たことがあるわけでないのですからわかりません。この頃からあの霊友会の小谷きみえさんですかね、キミさんの残されておるものを息子さんが収録して出しております。天の声という本が、何というでしょうかね、読むに堪えないという感じの本です、合楽で御理解頂いておったら。いわゆる御霊様専門ですけども、それだけであれだけの徳を受けたと言わなければならんですし、又あれだけ沢山の人が助かっていっておるということ。それがもう徹頭徹尾、もう繰返し繰返し言うてお
られることは、「この世で自分が助かっておらねば、あの世で助かる事は大変に難しい」と言うておられます。
 この世で助かる。だからそのこの世で助かることを、例えば「本心の玉を研く」とか、「日々の改まりが第一」といったようなところには、全然焦点が置いてないというてよい位ですね。只御霊様を、「難儀をしておる先祖の御霊様を、助けることによって自分が助かる」とこう言っておる。だから決して私はそれは嘘ではないと思いますね。人間は人を助けることが出来ると言う、「人間は御霊様を助けることが出来る」と霊友会の会長の言葉を借りるとそういうことになるでしょう。人間が御供養をする、先祖様の供養をする、そのことによって、先祖様が助かられる、その先祖様が助かられることによって自分自身が助かると言う風に説いとります。
 それで私は本当に助かるだろうかと思いますね。御霊様が助かって下さった、その喜びがこちらへ帰って来る、そこで病気が治ったり、運勢が治ったりするでしょうね。けれども私は私どもが助かるということは、そういうことではないと思うですね。病気が治ったと、災難が除けられたと、どうしてもやはり教祖様の教えて下さる和賀心を目指さして貰う、いよいよ魂を清ませられての信心、そこにこれは皆さんが体験しておられることでございましょうけれども、自分の心が信心の喜びというか、改まらせて貰う、研かせて貰うというような精進をさせてもらうことによって、魂が生き生きと、喜びに満ちて来る。私はそれが本当の助かりだと思う。そういう魂の助かり、それにどうでもついて来るのが、いわゆる御利益なんです。教祖金光大神の教えられた道はそれです。だから御利益というものは、決して讎しいものではない、むしろ頂かなければおかしいのである。頂かなければ、魂を清めるというても、果して自分自身猛反省して見なければいけない。
 最近の例ですが、私の上に風邪をひいて又少しこじらせたり、とうとう昨日は一日御無礼して休ませて頂いたのですけども、只風邪をひいた、こじらせたでは済まされない気がする。やはり気付かせてもらうところを気付かせてもらい、ああこの頃こげん体が弱ったから先祖様の御供養をして、成程先祖様の御供養をして健康になるかも知れません。けれども健康になったと言うだけで、人間が幸せになったことではない。
 そこで教祖様の御教えを頂かせて頂くことによって、いろいろ思い当らせて頂くことがあり、改まらせて頂くことによって、魂がいくらずつでも風邪をひいたことによって、少しでも清まることが出来る、そういう私は生き方こそ本当の生き方ではないかと思う。これは私はいつも繰返しておること、繰返して申しておりますことです。この世で有難いということを頂かずしておいて、あの世で有難い世界というか、有難い生活が出来るとは思われません。教祖金光大神も「この世で神になっとかずしてあの世で神があるか」と仰る。
 昨日の新聞に出ておったですね、又の御理解にそういう御理解があった。この世で神になっておかずして、あの世で、「神になることを楽しみに信心せよ」と仰る。というように「この世で神にならずしてあの世で神になることが出来るか」と仰る。確かにそうだろ
うと私は思います。それはあちらでも、こちらでも修行ですけども、信心の何たるかということを、お道の信心によって体得させて頂いて、それこそ成り行きを大事にさせて頂きながら、すべてのことを御事柄として受けぬいて行くという、そういう合楽で言う信心の基本姿勢というものがまず出来なければならない。そういう姿勢から魂が清められて来る、助かって来る、その魂の清まりに伴うて、御利益が受けられる。その魂を清めることを一生懸命続けて行く、それで良いということはない、魂の世界に入っても、やはりそういう如何にして清めるかということをです、体得させて頂くことによって、あの世でも大丈夫という、私はおかげが受けられ、いわゆる至誠の安心といったものが得られると思うのです。
 人を助けることが出来るのは有難いと仰るように、人を助けることが出来るのは有難いためには、だからどうでも私自身が助からなければならない。私自身が助からずして、人を助けることは出来ません。そういう働きの出来るのが人間であるというように、この世にある例えば食物一つ頂かして頂くでも、大酒大食しては絶食の元になるので、有難く頂く心と同時に、適当な、体にさわらないような頂き方をする。私は人間が人間の生というもの、生命というものを本当に尊ぶ、それは美しいことである。牛やら馬ではそれは出来ぬ、人間なればこそ出来るのである。
 だからその生命を尊ぶ、いのちを尊ぶという程しの精神がね、人間がこの世に生を享けておる間に、この世におる間に、魂をそのように大事にせなければならないということをわからせて貰うということ。それを皆さんに分かってもらわねばならんということが、私は和賀心時代を創るということだと思う。人間が一人の命を助けるために、それこそ社会国家がです、そのためにどういう犠牲を払ってからでも助けようということにそれを惜しまないように、人間の心のです、人間の肉体と同じように尊ばなければならないものだ、大事にしなければならないものだと、と言う事を国家が、社会が、そういう心がけにならせて頂くような運動がいわゆる和賀心時代を創る、それはいろいろな助かり方がありましょう。
 その例を申しますと、霊友会のようにお先祖様を御供養して自分が助かる。成程それは助かりましょうけれども、私は魂の清まりを願わずして、根本的な助かりにはならないと思う。そういう簡単な考え方かと思うと、同じ仏教でも大変にそれこそ難しい、論理の上に立った宗教とでも申しましょうか、助かるためには大変な難しい哲学的な勉強をして行かねばならないというように難しいものでもない。
 キリストの様に死人を甦らせる程しの霊徳、霊能者であるという、そういう信心によって助けられたところで、果してどれだけの幸せが頂けるだろうか、いわゆるそういう助かり方ではいけない、そういう助かりではだめだと、そこにいわゆる宗教革命の必要があるわけです。
 この世で私達が、人間が、人間の命を尊ぶ、大切にするように、それは世界中の人間がそういう考え方を持っておる方に、世界中の人間がです、肉体をそのように大事にせなけ
ればならないものだというような観念をです、魂をもそのような気持ちで大切にし合う、大切にするという、「生きても死んでも天と地はわが住家と思えよ」ということがわかればわかる程です、本気で魂を清めることに精進しておかねばならない。その魂を清めることこそ、和賀心に近付いて行くこと。その和賀心にはです、仏教で言うキリスト教で言う、又は新興宗教あたりで言う、こうしなければ助からないと言ったようなことのすべてがです。和賀心の前には、それに言うならばこうするものならば(抗するもの)無いと言うこと、これに勝つものはないということ。 
 天と地は我が住家と思え、この世では苦しいことのみだったから、せめてあの世に行ったら楽になるだろうか。肉体の痛い、痒いはなくなるでしょう、けれども、魂が苦しい、魂の世界、その魂が喜びで一杯、歓喜に満ちておる。魂をこの世にある間に、頂いておらねば、あの世では、いよいよ助かりにくい。もうこの世では仕方がないからあの世でと、それは只肉体だけなのです。肉体は言わば滅びますから、そこには病気も消えて仕舞うでしょうし、痛い痒いも肉体と同時に消えてしまいましょう、けれども魂はそのようなわけには行かんのです。
 私は今日、本当に思わせて頂くのは、人間の例えばそれは、親はもう死罪にでもといったような罪を犯しておる親であっても、その子供が山の中に捨てられておるといえば、それで助けることのために、様々な手を尽くします。救い出したるそれに、さあ乳だ、ミルクだというて、その分を大事に尊びます。その位な気持ちでです、私どもが魂を大事にすることを体得さしてもらい、そして魂を大事にすることを人に伝えて行けれ、そういう、一つの思想というかね、そういう思想が世界中にはびこって行く、そこでしかこの世での真の助かりも、あの世での真の助かりもないんだということをです、わかって、わからせて行くところに、私はお道の信心がある。合楽の信心があると思うのです。
 ですから、まず私どもがここんところをわからせてもらわにゃいけん、生きても死んでも天と地は我が住家であることを、一つわからせてもらう。今は私ども自身でもそうです。いわゆるこの体を大事にするように、その、食べもの一つにでも心を使うようにです、私どもの心、魂をです。そのような、体を大事にする気持ちで大事にさしてもらわねばならん。それが私はお道でいう信心だと言うてもよい、この世で神様になっておかずして、あの世で神様になれるかと、この世で喜びを開いておかずして、あの世で喜びの御魂になれるか、この世で安心のおかげを頂かずしておいて、あの世で安心の御霊が願われるか。
 そこのところが私は、精進させて頂くところからです、生きても死にても天と地は我が住家と実感させて頂ける体験が、生まれて来るんじゃないかと思います。魂を尊ぶ、魂を大切にする運動、それが私は和賀心時代を創る運動だと思うです。それがこの世だけの言うならおかげだけでなくて、その働きがそのままあの世に持ち込まれて行くところに、このままこの喜びを持って行けれる、この調子で研いて行く、改まって行くという、信心の根本精神が鍛われ、培われて行くところにです、いよいよ安心の御霊としての働きの出来
る御霊としての、いわゆる神に祀られるというおかげになって来ると思います。
 生きても死んでも天と地は我が住家、そこで私どもが生きておる、例えばこれは人間のすべてが命を尊ぶように、そういう考え方ともう一つそれに、人間はこの世に生を享けておる間にいよいよ魂を尊び、大事にさせてもらわねばならないものだということをです、何とかしてです、世界中の人にわかってもらいたい、そういう願いのもとに、合楽の信心は進められておるのであります。 どうぞ。